大澤信亮『神的批評』を通じた自分語り

 例えば、既に別の男と付き合ってしまっている女性に惹かれてしまい、その人をどうしてもあきらめきれない男がいたとする。そしてある時から、彼氏を除いた周囲の人間関係に疲れたというその人の悩みを夜中まで聞くようになったとしたら、彼はそのときどのような態度でいるのだろうか。とにかく早く回復してほしいと願っているのか、あるいはそれを通じて自分の好感度を上げたいという打算が働いているのか。おそらく私の場合は両方が入り混じっている。世の中の多くがどう捉えているのかはわからないが、少なくともそのとき、皆自分だけはその人を傷付ける人々とは無縁の位置に立っていると信じているのではないかと思う。自分以外彼女を救える人はいないというヒロイズムは幻想にすぎないということは頭ではわかっているが、いざ実際の場面になるとその錯覚に依存してしまう。

 大澤信亮『神的批評』において大澤が批判するのは、こうした自己への問いかけを拒絶した態度、「ある暴力を否定し、ある暴力を肯定する線引き」という態度そのものである。
 『神的批評』に収録された四本の評論は、それぞれ宮沢賢治柄谷行人柳田國男北大路魯山人とそれぞれ異なった人物を批評対象にしている。しかし、大澤の態度はほとんど一貫して、「私を問うこと」「他者を問うこと」に向けられている。その意味では大澤の主張はあまりにも明確である。しかし明確であることとそれを実践できるかということは違う。大澤はその違いをこそ問おうとしている。

殺す者としての自分を愛せないのは、社会の掟に縛られているからだけではない。それが最愛の相手を殺すことを含むからだ。だが、憎んでいる相手なら殺すこともあろうが、愛するものだけは殺さない、という自己規定こそが暴力の形式である以上、それを破壊しなければ真の意味で暴力批判はできない。(中略)自らを暴力と無縁の存在に位置づけようとする限り、彼らに暴力の核心を見つめることはできない。(大澤信亮宮沢賢治の暴力」『神的批評』)

 この言葉は、それが自分の中に置き換えられた瞬間に、一気に鋭いものになるのではないかと思う。これを「宮沢賢治をめぐる問題」として読んでいる限り、そこで述べられたことはあくまで抽象論にしかならない。しかし、それを自分の問題として捉えたとき、私にはその困難さが露骨に現れ出てしまった。
 
 その人と付き合っている男だけでなく、彼女の周りに群がってくる人間すべてに心底腹が立つことが一時期あった。彼氏面をして、邪魔をするなと勝手に苛立っていた。その後紆余曲折あって結局、彼女はその人たちと関わり合うことに疲れてしまった。私はずっと相談役のようなものを引き受け続けていた。「自分以外彼女を救える人はいない」という幻想は何度でも回帰していた。安全な位置からの他者(彼女の周囲の人間)批判をずっと続けていた。
 しかしそれでいて、一番その人が荒れることを望んでいるのは自分ではないかとも考えたことがある。気が滅入って、憔悴した彼女の近くにいることで、自分が求められているという実感を得てしまう……。だからその人が不幸になることがある意味自分にとって幸福なものになってしまっている。そう考えてしまうと、自分が恐ろしく狡い存在であるように思えてしまう。大澤の言葉で言えば、私がやっているのは、「最愛の相手を殺すこと」なのだろう。しかし、それならば「殺す者としての自分」とは果たして愛することができるものなのだろうか。
 「殺す自分を愛する」ためには、「自分を殺そうとする者を愛する」ことが必要なのだと大澤は言う。賢治の場合それは賢治にとって命以上に大切なものだった法華経を否定した友人保坂を肯定することであった。では私の場合はどうか。彼女と付き合っている男、そして彼女を追い込む周囲の人々、彼らを肯定することが必要だということになる。しかしそれも実行できるのかわからない。自分の敵となり得るような存在を、彼らが敵であるまま認めるということ。そんなアクロバットなことが可能なのだろうか。
 
 『神的批評』で大澤が要求しているのは、どうしても我が身が可愛いと妥協してしまう私たちにとっては非常に困難な、「自己」と不断に向き合い続けるという行為である。そこに向き合い続けることで、例えば彼女を手に得ることができるというような、具体的な実利を得られるわけではない。下手をしたら何にもならないのかもしれない。しかもそれは自分の持つ暴力性を自覚させられるという意味で茨の道になってしまっている。
 正直に言って何か明確な結論を得たわけではない。むしろどうしようもなさが強まってしまったような気がする。しかも「宮沢賢治の暴力」のほんの一部しか触れられていないこの文章は、『神的批評』がどのような主張を持つのか詳しく追うことすらできていない。
 しかし最もはっきりしている点がある。それは私たちは『神的批評』を単なる評論ではなく、まさに自分の問題として引き受けなければならないのではないかということだ。そうでない限り大澤の言葉は皮相なものとして終わってしまうように思われる。自分語りのようなスタイルを取ってしまったのも、そのようにしなければ何か、内容そのもの以上に抜け落ちてしまうものがあるように思えてならなかったからだ。
 
 安易な救いをおそらく許さないだろう本書は、しかしあらゆる人に、文芸批評に触れたことのない人にも読まれうるものではないかと思う。